江戸時代後期、人生50年と言われていた時代、75歳の
葛飾北斎が記した言葉。
「私は6歳から物の形を写す癖があり、今まで様々な画図を描いてきたが、70歳までの画は取るに足らないものばかり。73歳でようやく生き物の骨格や草木の出生を悟った。90歳で奥義を極め、100歳で神の業に達する。110歳になったら、まるで生きているかのような絵を描けることだろう。この言葉が嘘でないことを証明してみせる、どうか長生きさせ賜え。」
この情熱と貧欲さが北斎の絵の「迫力」に繋がっているのかもしれない。言葉通り、その後「富嶽三十六景」などに代表される木版や浮世絵の世界からは遠のき、晩年製作された多くの肉筆画はまるで魔物やら仏やらが潜んでいそうな妖艶な生々しささえある。
生涯93回も引越しをし、30以上の画号を持ち、90歳まで絵を描くことだけに情熱を注いだ北斎は変わり者だったことでも有名だけど、そんな北斎の作品と生き方に心惹かれ、失礼だけど私の中で「カッコいいお爺ちゃん」といえば「北斎」をまず連想してしまうほど。
←浅草4丁目の誓教寺にある北斎の墓。
ひっそりとした下町の路地にある小さなお寺だ。
墓標には
「画狂老人卍墓」とある。
自らを
「画狂人」と称した北斎の、最後の画号がこれ。
どこまでカッコいいんだ、この人は。
そして最期に北斎は
「せめてもう10年、いや、あと5年でもいい、生きることができたら私は本当の絵を描くことができるのに」と嘆いたという。
これだけの名作を数多く残し(その数2万点とも言われている)、晩年まで旅を続け、日本国内にとどまらず欧米でも絶賛され、そして90歳まで生きたのに、まだ本物の絵を描いていないと。
きっと北斎は自分自身の人生に確固たる使命と、浪漫を持ち続けていたのだろうな。
人々から絶賛されても、あっさりその画号を捨て、次々と新しい画風を追い求めていることからも分かるように、彼にとっては賛辞や安定した生活など二の次で、いつも自分自身に挑戦を挑み、進化することだけを望んで人生を歩んできたのだろう。
そして、その凄い信念が何世紀後も変わらず人々に感動を与える。
考えれば考えるほど物凄い爺さんだ。
人は何歳になっても成長していけるものなのだと、北斎はその生涯をかけた作品を通して今も私達に教えてくれているような気がする。
これからもたまにお墓に花を手向けに行きたい。